男は、縁側に腰掛けて、何をする訳でも無い様子で、ただ空を見つめていた。







その男に、私は何をしているのかと尋ねた。
すると男はぼそり、何もしていないと云う。
ただその男は何も無い薄汚れた空を見つめては、瞬きを繰り返すだけだった。
私には、男の目には、まるで膜でも張ってあるかのように、そこにある空を見ているようで、実はそうでないようにも見えた。
隣に座れば何かが分かるかと思ったが、どうもそんなに簡単ではないようだ。
静か過ぎる世界に音を与えるように、鼻からゆっくりと空気を体の外へと逃がす。
すると、何もしていないと云った男が、誰に聞かせるでもなく−きっと私に聞かせる為でもなく、自分の為に−か細い声ではあったが、話を始めた。



おれには一個だけ、大切なものがある。
妻が居ないから、子供ももちろん居ないが、それもこれから大事に出来るんだ、それがあれば。
おれはなぁ、おれの魂が大切だ。
沢山の苦しみと辛い事に耐えて、沢山の喜びと楽しいもんを記憶してきたもんだ。脳でなくて、魂なんだ。
ああ、例えばおれがまだ高校生になるかならないかの時の話だ、おれが進学した所ってのは悪いのが多くてなぁ、なかなか友達ってもんが居なかった事だとか、初めて彼女が出来た事だとかなぁ。
今となってはいい思い出だ、うん。
思い出が大事と言ってしまったら、自分が今まで生きた人生の生き方ってのを、無い事にしてしまいそうで怖いんだ、臆病な男なんだ、おれは。
分かるか、嬢ちゃん。



素晴らしい言葉のはずなのに、悲しくて、その男を殴りたかった。
男は、私の父だった。